世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読了した。
ひさしぶりに読んだ気がする。少なくともこの1年は読んでいなかったはず。全体としてのことは置いておいて、気になった部分が3つあったので、そこについてだけ書く。


上巻を読み進めると、なぜかすごく読み辛い。特に「世界の終り」の街や森や壁の描写が重苦しい。それを狙っているのかもしれないけれども。
そんな印象は持っていなかったので、こんなもんだったかな、と思いながら読み進めた。そして上巻の最後のほうで、ずっと昔から好きだった一節にたどりついた。

「でもそのときはそんなこと思いつかなかったんだ。僕の家は君のところと違ってとても平凡であたり前の家庭だったし、自分に何かの面で一流になれるかもしれないなんて考えもしなかったしさ」
「それは間違っているわよ」と娘は言った。「人間は誰でも何かひとつくらいは一流になれる素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。引き出し方のわからない人間が寄ってたかってそれをつぶしてしまうから、多くの人々は一流になれないのよ。そしてそのまま擦り減ってしまうの」

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉

すっかり忘れていたけど、この文章がとても好きだった。昔からこれをある種の慰めではなく、ひとつの事実のように受け入れていた。たぶん。


さらに読み進めると、こんな文章があった。

獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界にもっていってしまう。そして冬が来るとそんな自我を体の中に貯めこんだまま死んでいくんだ。彼らを殺すのは冬の寒さでもなく食料の不足でもない。彼らを殺すのは街が押しつけた自我の重みなんだ。
<中略>
街はそんな風にして完全性の環の中を永遠にまわりつづけているんだ。不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい?それが本当の世界か?それがものごとのあるべき姿なのかい?いいかい、弱い不完全な方の立場からものを見るんだ。獣や影や森の人々の立場からね。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉

そのまま「壁と卵」(参考:考える人 2010年 08月号 - 村上春樹ロングインタビュー - techlog)に通じるような文章だ。あの文章は、ずっと根底にあったことなんだと思った。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が刊行されたのは1985年、「1Q84」の天吾と青豆の時代だ。
あと、村上春樹自身が話しているけど、やっぱりやみくろとリトル・ピープルは似ていると思った。

「小説の終わりの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
<中略>
「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。<中略>
私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持ちがほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉

ちょっと引用の仕方が微妙だけど、これも以前は気にしなかった文章のひとつ。「カラマーゾフの兄弟」を読んだから気になった。この一節はまったく記憶にないけど。
新潮社 原卓也訳 ではこんな感じの文章だった。

「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸な人になるでしょうよ」突然どういうわけか、アリョーシャが言った。
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね!」すぐにコーリャが相槌を打った。
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ」

カラマーゾフの兄弟〈下〉

僕も多少疑問に感じる。でも全く祝福を与えられない人生というのは寂しすぎる気がした。


ひさしぶりに読んでみると、面白さは変わらないけど、多少感じ方が変わってきた気がする。これまでなら気にも留めなかった部分が気になった。こういう発見が面白い。