30歳になった。

短い文章でも、残っていると面白いと思った。

この20代から30代というのは大きな節目のような気がする。10代になったときは若すぎたし、20代になったときはいろいろなことに夢中だった。40代になるとき、なにやってるんだろう。
10代はそれはそれで大変だった。まあ悩みのない10代を過ごす人なんていないと思うけど。20代は少し楽になった気がする。それなりの大変さがあったけど、それでも自分で色々なことを選んで、決めることができたと思う。これが10代と大きく異なったことだと思う。


人生というものを考えるときに、いくつかの文章や音楽を思い出す。
The Beatles の「The long and winding road」と、江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」とか。他にもいろいろあるけど、いまぱっと浮かんだのがこのふたつだったので。

Many times I've been alone and many times I've cried, Anyway you'll never know the many ways I've tried

このあたりに惹かれる。人生はどう考えても長くて曲がりくねっているし。

瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。SAFE でも SUITABLE でもない人生で、長期展望にどのような意味があるのでしょうか。

瞬間の集積が人生になっていく、そう思っていると、やっぱりなにか変わってくるのではないかと思う。


どんどん文章が拡散していくけど、まあいいとして、アインシュタインの有名な言葉に以下ようなものがある。

教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。

最近、本当にいろいろなことを忘れてしまったと思う。英語に関してはそもそも身についていなかったので、失うものもある意味少ない。けっこう真面目に取り組んでいた数学については、悲しくなるくらい驚異的に忘れてしまった。これは自慢だけど、僕はセンター試験の数学Ⅰと数学Ⅱでは合計で9割以上の得点を取ったし、大学に入ってからも微分積分の中間試験で100点を取った(その後の凋落ぶりは眼を見張るものがあったけど)。

ところが最近「数学ガール」を読んでみると、数学的知識のほとんどが失われていることに気付いた。呪文のように唱えた加法定理は覚えていたが、その意味はまったく覚えていない。複素数やベクトルはそもそも苦手だったこともあり、さらにわからない。
だけれども「数学ガール」読んでいて、数学を面白く感じた。これは「数学ガール」の良さかもしれないけど、いまならもうすこし違った側面から数学を捉えることができるのではないかと思った。
数学の知識自体はすっかり忘れてしまったけど、数学を教えてくれていた人達のことは、もうすこし覚えている。高校生の時に数学を教えてくれた何人かの先生を思い出すことができる。そういった部分が残っていただけでも、教育に意味があったのだと思う。結局「数学ガール」は途中まで読んで図書館の返却期日がきてしまい未読だけど。


もうひとつ高校の授業で覚えていることがある。ラグビー部顧問の世界史の先生がいた。見た目も雰囲気も怖かった。その先生の授業でのちょっとした雑談でこんな感じの話をしてくれた。めずらしく和やかな口調で。
「30代の半ばを過ぎて、最近だれからも夢を聞かれなくなった。あなたはこれから何になりたいのか、どんなことをしたいのか、と聞かれなくなった。まだまだ人生は長いのに、なんだか寂しく感じた。」
たぶん、こんな感じ。もう15年くらい前のことなので、かなりあやふやだけど。これがずっと心に残っている。間違って覚えていたら、ずっと間違ったまま覚えていたことになるけど。


僕には、小さいことから大きいことまで、ちょっとした夢がある。うまくいきそうなものも、けっこう難しそうなものもある。だれかに話そうとは思わないけど、そういうものがあるということは、けっこういいことだと思う。
これから5年間はいろいろ試してみたい。その先の人生の残り半分を、よきものとするための、準備だったり、基礎作りだったり。


もう30歳ではなく、まだ30歳で、やりたいことやできることを愉しみたい。